2014→2015 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。年末からずっと考えていて、ブログで書こうとしていることがこれから書くこと。『価値観』選手に話す時、私の口から出る言葉は私の価値観を話している、伝えている。私がいいと思うことを選手に話している。私の価値観がいいものであればいいが、悪いものであれば、これは選手にとってはとんでもないことになってしまう。それくらい責任の伴うことを生業にしているのだと改めて感じていた。先日ヒマラヤに見たいものがあり入店した。少しすると母親と高校生くらいの娘が入店してきた。その娘、サーティーワンで買ったのかアイスを頬張りながら店の中を歩いていた。お店の中で物を食べる→こぼした時に迷惑が掛かる(床)。もしも商品の服などについたら(地上)お店に迷惑、当然買いたくなくてもお買い上げ~。みたいな発想はあの親子にはないのか?親の『価値観』からいけばセーフなんだろう。『恥ずかしく』もないんだろう。たまに立ち食いや歩き食いしてる選手に注意する。それは『恥ずかしい』ことだと。そこには私の『価値観』を伝えている。『恥ずかしい』以前も書いたかも知れないが非常に重要な感情だと思う。特に日本人にはシャイで物事をはっきりと言わない悪い意味で使われるが、先に【日本人として】という言葉が付けば、非常に誇り高いいい言葉になると勝手に思っている。【日本人としての】『価値観』からすると恥ずべきことだとなる。『善悪の判断』を教えるのは親の役目だと、以前某幼稚園の園長先生から諭していただいた。本当にその通りだと思う。産まれてきた子供には『善悪の判断』などなく欲望の赴くままに生きているのだと思う。しかし、【日本人として】日本というコミュニティで生きて行くためには、【日本人として】の善悪の判断、言い換えると道徳なのか、そんなものが必要になってくる。それをかわいい子供に伝えていくのが親の大きな役割だと思う。その一方、こんなことを言いながらも『寛大』な心をもつのが日本人の良さだとも強く思う。人がやらかしたことを咎めるより(子供がやらかしたことはある一方で別にしていく、なぜなら善悪の判断を伝えて行かないといけないため)、黙って許したり、そんなこともあるけど次頑張れと思える精神が日本人の『寛大』さの良さであり、いい意味でなあなあな世界でお互いを悪く言うのではなく、足りない部分も含めてその人のキャラクターとして認めれる、そんなことが日本人っぽくていいんだと思う。最近ではやれだれだれがなんかしただの、すぐに揚げ足とったり、80%はいい人なのに悪い部分の20%を大きく80%に見せたりのマスコミなど、日本人の良さである『寛大』さを忘れている話が多すぎる。宗教論争が起きないのも日本人の寛大さがあるからこそ、いろんな考え方があっていいということじゃないだろうか。あーだこーだ書いたが私の考えていたことを余り整理せずに書いてみた。後から文章を見て、変だなと思ったらガッツリ変えて行きますので、とりあえず私の今の頭の中の葛藤などを書いてみました。いずれにしても上述したようなことをまた考えながら、今年のFCVにしていこうと思います。 PR